千葉県における牧の歴史
- 牧の歴史
千葉県内には江戸幕府直轄、下総の小金牧(五牧)、佐倉牧(七牧)、安房の嶺岡牧(五牧)が広く展開し、特に千葉市より北側の下総台地のかなりの部分が牧に含まれている。このように広い範囲に牧が整備されたのは、享保年間に徳川吉宗が行った牧改革に由来するが、それ以前から牧として利用されていた地域である。
我が国における牧の初見は『日本書紀』天智天皇7年7月条(668)に「多置牧而放馬」とあり、馬を放牧したことが見える。また『続日本書紀』文武天皇4年3月(700)に「令諸國定牧地放牛馬」とあり牧として牧として土地を定めるとともに牛馬を放牧したことが見える。
牧の制度は『養老厩牧令』に規定され『延喜兵部省』には諸国牧として千葉県内の安房国、下総国を含む18国に合計39牧がみられる。このうち、千葉県内では、上総国に大野牧、負野牛牧が、下総国に高津、大結、木嶋(埼玉県)、長洲(埼玉県)馬牧と、浮嶋(東京都)牛牧の5牧が、安房国に白浜牧、鈖師牧の馬牧2牧がある。
- 江戸幕府の牧の整備と廃止
江戸幕府の牧支配は幕府代官、藩(一部の牧)、若年寄馬預、野馬奉行など支配体制の変遷を経て野馬・牧士の支配管理により、牧経営の管理体制が整えられ幕末まで続いた。
慶応2年(1866)11月、関東郡代(「新規関東郡代」、慶応3年2月関東在方掛と名称変更)は関東の村々に向け開墾奨励を出す。これは享保改革以来の大がかりな開墾令であった。
しかし、地元村々からの主体性が期待された開墾令は、大きな成果は得られず牧の開発も実現しなかった。寛文・延宝期と享保期同様、開発は牧の縮小や廃止を意味する。軍馬の確保を必要とした幕末期の軍事緊張の中では、牧の廃止は現実的ではなかったのである。
しかし、徳川幕府瓦解後の明治元年8月(1868)軍事的覇権を確信しつつあった新政府は、軍馬供給元である牧の廃止を宣言した。これ以降、旧牧地は開墾局や東京府・民部官が設立した開墾会社による開墾事業地へとその姿を変えることになる。
- 牧とその遺構
今日の我々が目にすることができるのは、江戸幕府によって経営された牧の遺構である。江戸幕府直轄の牧の大半が千葉県に置かれたのは江戸に近いことや古代からの牧の設置ということに加え、広大な大地が平坦に続くという北総台地の地形的な特徴がその理由と考えられる。
下総の牧は西側を小金牧、東側を佐倉牧として経営されていた。小金牧は南北に延び、北から高田台・上野牧・中野牧・下野牧・印西牧によって構成されており、小金井五牧とよばれた。現在の柏市・流山市・松戸市・鎌ヶ谷市・習志野市・千葉市・白井市・印西市に及んでいる。
佐倉牧も南北に延び、北から油田牧・矢作牧・取香牧・内野牧・高野牧・柳沢牧・小間子牧によって構成されており、佐倉七牧とよばれた。現在の香取市(旧佐原市・小見川町・栗源町)・成田市(旧大栄も含む)・多古町・芝山町・富里市・酒々井町・佐倉市・山武市(旧山武町)・八街市・東金市・千葉市にまで及んでおり小金牧の約2倍の面積であったといわれている。
- 下野牧の位置と範囲
下野牧も都市化の度合いが極めて高い地域である。推定範囲は鎌ヶ谷市、船橋市、八千代市、習志野市千葉市域に及ぶが主要域は船橋市域の東側である。つまり、北端は船橋市咲が丘1丁目~二和西6丁目、南端は千葉市花見川区柏井町~花島町あたり、西端は船橋市南三咲1丁目~習志野台3丁目~薬円台6丁目~習志野市泉3丁目~千葉市花見川区天戸町あたり、東端が船橋市咲が丘3丁目~みやぎ台3丁目~三咲9丁目~大穴北8丁目~松が丘5丁目~坪井町~八千代市緑が丘2丁目八千代市高津(陸上自衛隊習志野駐屯部隊演習場)~習志野市東習志野7丁目~八千代市八千代台南3丁目あたりと思われる。
千葉県教育委員会
平成17年度 県内遺跡詳細分布調査書
房総の近世牧跡 より
作新台地域の野馬土手の現状
野馬除土手調査報告
(1)遺跡は八千代市の南端、千葉市作新台と接する道路沿いにある。
その立地は下総台地のほぼ中央、印旛沼の南にあたり、新川、花見川河川群の支谷により囲まれた標高26mの長方形台地のほぼ中央にある。土手は高津新田の南側の村境に沿い東西に位置する。地形的には東から入る微小な支谷、もしくは凹地の南縁に沿い比高5mの勾配で東に下り、
旧芦太川(あしぶとかわ)付近まで続く。また旧村からみて南方に比高1~3mの高まった丘陵状の頂部に立地するのが特長的である。
房総の牧 第4号
郡 武平氏 野馬除土手調査報告より
(2)長作町―作新小学校の西方に二重土手と堀が教会を間に挟んで約100m、約130m所在している。外側の土手は幅約8~9m、高さ約2~2.5m、牧側の土手は幅約4~6m、高さ約0.5~1m、堀の幅約2m、深さ約2mで遺存状態は比較的良好である。下野牧西南端の野場除土手である。
千葉県教育委員会 房総の近世牧跡より
牧馬(野馬)の水呑み場跡 ”滝の清水“
京成電鉄沿い、春日神社南側にある保存林 字“上猪堀込”の入り口に当たる所に、里の人が
「滝の清水」とか「神社の池」といっている野馬の水呑み場跡がある。これは「滝の清水」といって、昔からの“牧”の文化の史跡である。現在は埋め立てられているが、三方を囲む土手垣があり、まだその雰囲気を残している。
当時の池の深さは浅かったが“青玉が立つ”程に豊かな水が湧き、谷側の土手のV字形の割れ目より余り水が谷津田字“谷坪”(“坪”は区割りの意味があるが、ここでは滝壺の当字であろう)へと流れ落ち花見川の本流へと合流している。この池の水は、昔からどんな日照り続きでも涸れた事がなかったと伝えていた。しかし大正13年に字“享保”(作新台東部)の木が伐採されて水量が減った。
池は初め円形をなしていた様だが、野馬里入りを防ぐため、元禄2年(1689)に三方を土手垣で囲むようにした。そして、牧場を管理していた金ケ作役所(松戸市)は、牧内の水が日照りで涸れたとき、隣接する野付村々より2人ずつを日割りで動員して、この池の水所々に置かれた樽に運ばせて野馬に吞ませていた。又、池底の砂を浚う作業も野付村農民の仕事であった。水を呑みに来た馬は、江戸幕府が下野牧に放牧していた野馬で、日本古来から生殖している背丈1m20cmを標準とした小さな馬である。近くに“牧”と関係が深い「野馬除土手」が残っている。
<資料> 文化七年 実籾村御公用控帳板書
花見川区長作町 河野達三氏 資料より